死に関してはたくさん話したいのですが

まずは誰かのことを思い返す時ふと思い出すことや考えることはたくさんありますが、あの人はあんなことをしてくれた、こんな言葉をくれた、あんな時間が楽しかった。そんなことを本気で思い出を見返してその人のことを改めて考えることはその人が亡くなった時だけではないでしょうか。失恋した時も考えるかもしれませんが友人相手に失恋などはしないでしょう。

だからこそ大切な人たちくらいは生きているうちに亡くなった時を仮定し思い出に浸り今一度その人たちの大切さを身にしみることは生きている喜びの1つだと思います。

 

そして私が1番嫌いなことは、もし若くして亡くなってしまった人がいたとしてそれに対して「若かったのに可哀想…」や「これから恋人と幸せになっただろうに…」や「大企業に内定もらってエリートになっただろうに…」と言う人たちの存在です。

亡くなった人がまだ手にしていないものまでにも悲しみを持つことはただ哀れみたいだけに思えてならないのです。

その人が手にしていたものに関しては納得なのですがそれ以上のものを悲しんだとすれば、亡くなった人なことをイメージやシンボルとしてしか見ていないように感じてしまいます。亡くなったから有名になったり、美化することは死から目を背けている行為です。亡くなっても生きていてもその人の等身大を見ることがその人の存在の尊重になりえるのです。

 

若くても病気を患っていても健康な大人たちでも今日死ぬかもしれないということは誰しも同じであることを私たちは忘れがちなのではないでしょうか。

 

だからこそ「MOROHA」や「君の膵臓を食べたい」の言葉が刺さったことがあります。

 

近しい人が亡くなった時に男性は同世代の人が亡くなり自分がいつ死ぬか分からないから今日死ぬかもしれないと今死んでもいいように目一杯生きようと、女性は残された人たちの悲しみを知りそんな思いは大切な人にはさせたくないからと長生きしなきゃと、

確証や体験はないですが男女でこのように考えが分かれるような気がします。

 

もっと話してしまいたいのですが今回はこれくらいにしておきます。