教育

私は小学生や中学生の時にたくさん怒られました。不良なわけではないのですが、自分で自分を律することができずに言われた通りにやることや俗に言う良い子でいることができなかったために怒られていました。

 

そんなよく怒られていた私だからこそ分かったことがいくつかありました。

 

大人になると怒ってくれる人が減ります。小さい頃言われ続けた「怒られるうちが華だよ」と言う言葉を痛感しています。怒るのではなく、何も言わずにそっと見捨てる人が多いためあのような言葉を言われていたのだとやっと分かりました。しかし小さい頃にそんなことを言われても分かるはずないんですよ。子供の頃は怒られないことが華であると思っていたのですから。

 

そして今思うと子供の頃に怒ってきた人たちは感情をぶつけてくるだけで叱ってくれた人はいなかったような気がします。決まりだからルールだからだの元も子もないことしか言わずなぜそのルールがあるのかということを少しも説明はしてくれませんでした。あの時の私にも分かる言葉で叱ってくれた人は1人もいなかったなーとふと思う時があります。

 

こんな大人にはなってはいけないよ。だからこんなことをしてはいけないよと言う大人たちが大勢いますが、その人たちは「こっちの道には行ってはいけないよ。」といったニュアンスで言ってきますがそちらの道にある分岐点のフォローはしてくれないのです。なぜならそっちの道に行ったことがないからです。自身の失敗から間違った道は知っているが正しい道の中にある困難や壁の存在を知らないためにこのような中身のない助言が生まれるのかなと思います。

 

年上は敬うと教えられたからこそ年上になった時どうしても上から目線になってしまうのも困りものだなと。

死に関してはたくさん話したいのですが

まずは誰かのことを思い返す時ふと思い出すことや考えることはたくさんありますが、あの人はあんなことをしてくれた、こんな言葉をくれた、あんな時間が楽しかった。そんなことを本気で思い出を見返してその人のことを改めて考えることはその人が亡くなった時だけではないでしょうか。失恋した時も考えるかもしれませんが友人相手に失恋などはしないでしょう。

だからこそ大切な人たちくらいは生きているうちに亡くなった時を仮定し思い出に浸り今一度その人たちの大切さを身にしみることは生きている喜びの1つだと思います。

 

そして私が1番嫌いなことは、もし若くして亡くなってしまった人がいたとしてそれに対して「若かったのに可哀想…」や「これから恋人と幸せになっただろうに…」や「大企業に内定もらってエリートになっただろうに…」と言う人たちの存在です。

亡くなった人がまだ手にしていないものまでにも悲しみを持つことはただ哀れみたいだけに思えてならないのです。

その人が手にしていたものに関しては納得なのですがそれ以上のものを悲しんだとすれば、亡くなった人なことをイメージやシンボルとしてしか見ていないように感じてしまいます。亡くなったから有名になったり、美化することは死から目を背けている行為です。亡くなっても生きていてもその人の等身大を見ることがその人の存在の尊重になりえるのです。

 

若くても病気を患っていても健康な大人たちでも今日死ぬかもしれないということは誰しも同じであることを私たちは忘れがちなのではないでしょうか。

 

だからこそ「MOROHA」や「君の膵臓を食べたい」の言葉が刺さったことがあります。

 

近しい人が亡くなった時に男性は同世代の人が亡くなり自分がいつ死ぬか分からないから今日死ぬかもしれないと今死んでもいいように目一杯生きようと、女性は残された人たちの悲しみを知りそんな思いは大切な人にはさせたくないからと長生きしなきゃと、

確証や体験はないですが男女でこのように考えが分かれるような気がします。

 

もっと話してしまいたいのですが今回はこれくらいにしておきます。

オカマ

オカマバーに行ってきました!

世間で想像されるオカマがゴロゴロいました。

ショーもあり、その時は綺麗どころが出てきて本当にめちゃくちゃ可愛くて綺麗な人もいて妖艶な人もいて皆とても魅力的に見えました。ついつい一人一人の可愛さや女性らしさを見つけるように見入ってしまいました。営業中、しかもその中でもショーの時はどんな女性よりも女性で指先ひとつ表情ひとつの動きが見逃せないほどエロを含んだものでした。ショー中に目があったオカマさんが笑ってくれたのですが、その笑い方もただニコッとするだけではなく目と目が合い何かを感じ気持ちが高ぶりその結果笑うという高等テクニックをしていて、笑顔までのコンマ何秒ほどの間がなんとも心地よかったです。本当に恋に落ちてしまいそうになってしまった瞬間でした。なんとなく良いと思っていて…居心地がよくて…と付き合う人が多い中、恋に落ちることなどほとんどない世の中で久しぶりに恋に落ちそうになれたことが1番嬉しいことでした。

アイドルやキャバ嬢に貢いでしまう男たちの気持ちがほんの少しだけ感じれた空間で、演技だとしても仕事だとしてもそれでも構わないという気持ちになってしまうのです。なにも考えずいる人よりひと時でも寄り添ってくれる人を選ぶことはおかしいことでしょうか?

この人を本当の女性にしてあげたいと一瞬本気で思ってしまった僕はバカな男です。こんなおこがましいことを言える立場でも思える立場でもありません。店の策略にハマりオカマさんの色香にハマってしまっているだけです。それでも僕は幸せと胸を張って言えそうです。

しかし、上から目線で申し訳ないのですが

今までなぜ女性にこの人をもっと綺麗にしたいと

本物の女性にしてあげようと思えなかったのかとふと疑問に思いました。

綺麗になることは女性の仕事だと決めつけ女性が女性をサボっていることを残念に思っていた自分は男であることをサボっていたのではないかと思い始めました。

 

痛み

痛みから逃れるために、怒られるのを避けるために行動を決める人が多い気がします。

たしかにリスクを遠ざけられるなら遠ざけた方が良いに越したことはありません。万全の体調と良好なメンタルによってより良い生活が送れることは確かです。

 

しかしそんな生活が送れる日は多くはありません。ならば痛みと戦えばいいのでないかという考えに至りました。明日早いからなんて言ってたらお酒は飲めないし、間違ってると思ってても怒られそうならやってしまうこともあるし、自分のやろうとしてたことにリスクがある場合それを遠ざけてしまうのではなく痛みや辛さを受けながらやりたいと思っていたものに突き進むべきです。目先の痛みに怯んで目指していた場所から遠ざかりたくないんです。

白い目で見られることも寝不足も二日酔いも人に嫌われることも叱られることも金がないことも全て飲み込んでやりたいことをやれたなら、こんなに熱くなれるものはないと思うんです。

 

痛みを言わずブラックな会社に勤め続ける場合は辞めることの気まずさ、残った人たちへの申し訳なさ、その他諸々と戦うことです。

しかし、本当に言いたかったことは痛みと戦おうということではなく戦い続け痛みに慣れてしまえば良いということです。

慣れた痛みならなんてことありません。図太く生きていきたい。

 

「迷ったら辛いと思う方が正解」

全てのことに言えるわけではないのですが、壁にぶち当たったときにふと思うようにはしている言葉です。

痛みを伴うことが嫌で誰もが立ち止まっている時に、それくらいの痛みならと進んでいける人になれればふとした時にできる選択肢が増えます。

 

そして、人生の後悔とは痛みから逃げてしまったことが多いように感じます。

効いたかどうかなんて分かりっこないですが、痛みと戦ったことは自分の後悔になりそうだったことを後悔にさせなかった力もあるはずです。

 

痛みから逃げても良い。後回しにしてもいい。

だが慣れてしまえばいい。

 

ディストラクションベイビーズ

お酒とは楽しいものです。酔った時の気持ち良さは何物にも変えがたいように感じます。

しかし、お酒を覚えたからというもの友達と会う=お酒を飲むということが多く、それがスタンダードになってしまっていることに少し寂しさもあります。子供の頃はお酒なんか飲まなくても友達と笑って日が暮れるまで永遠と遊べていたのに。


お酒以外に楽しくなれるものはないだろうか、気分を上げてくれるものはないだろうか、そんなことをふと思い日々模索しています。

音楽は好きでよく探し素敵な曲を見つけるとそれに酔いしれ気づくとお酒を飲んでいました。

……なぜだ。なぜすぐお酒を飲んでしまうのだ。

そんな日々が続く中、ネットで噂の「シュンケル」というもの知る。「シュンケル」とはシュークリームとユンケルからくる造語であり、シュークリームの糖分をユンケルが脳に運びめちゃくちゃ目が冴え頭も冴えるということらしいです。

興味が湧いた僕はすぐシュークリームとユンケル、そしてビンのモンスターエナジー(強力そうなやつ)を買いすぐさま全てを飲んでみました。するとみるみるうちに体が赤くなりテンションの高揚を抑えられないほどウズウズしてきました。あれはあれでお酒にも勝るアドレナリンが出ていたようでした。


アドレナリンが出ている状態とはなんと狂気じみていて生きていることに喜びを感じるのでしょう。そんな気分に毎日なれたらなんと素敵でしょう。


アドレナリンが出ている中、ディストラクションベイビーズという映画をずっと前に見たことを思い出しました。

この映画は暴力を振るいに振るう主人公に周りの人が影響されていきどんどん狂気と暴力が加速していく映画でした。

僕は暴力には嫌悪感があり、この映画を見た時も嫌悪感がありました。しかし見ていくうちに映画に出てくる登場人物たちのように嫌悪感が興味に変わり、爽快感を覚え、暴力に魅了され興奮がどんどん抑えきれなくなっていきました。

この映画を観ていた僕は側から見ると殺人犯やサイコパスに見えたであろうほど暴力に魅了されていました。

昔から暴力を芸術として描いてきたものはたくさんあります。そんな先人たちの気持ちがようやく少し分からせてくれた映画でした。


もし、アドレナリンで脳汁をドバドバ出したいという方がいたらこの映画をそっと勧めてみようと思っています。


たまにはこんな狂気に浸かる日があっても良いのでは。




レディ・バード

初めまして、やんちゃんです。

日々の思ったことや気づいたことの中で、人に言うほどではないな〜ってことをここで愚痴ったり話していこうと思います。

 

 

さっそくですが、先日「レディ・バード」という映画を観てきました。

女性の憧れの女の子、男性が惚れそうな女の子ではなく思春期の女の子のありのままの女性を描いた作品でした。

 

そこで印象的だったシーンはパーティのためにドレスを買いに行く娘(主人公)と母の会話で喧嘩をしていくシーンです。

少しずつジャブをお互いかましつつ、いよいよどっちかがキレそう!と思った時に母が「このドレス良い!」と1つのドレスを持ち上げ、それを見た娘が「めっちゃ可愛い!」と言うシーンに僕はめっちゃくちゃ女だー!と思った訳です。

 

普段から女性の感性に興味があった僕はこれだー!と思いました。

そうなんです!

女性はランチに行った時に悲しい話、憤る話、楽しい話をした時にですらランチが美味しいと感じれるのです!

女性は同時に複数の感情を感じることができるのです。これこそ女性だと感じました。

男性は基本的に1つの感情しか持てないのです。

皆さんも映画やドラマで飯時に喧嘩しだした時に男性が「やめろ!飯が不味くなる!」と言うシーンを見たことがあるのではないでしょうか?

男性は感情が1つしか持てないので喧嘩をして気持ちが落ち込んだ時、飯の味など分からないのです。もし、この飯美味いなと思った時は話がつまらなかった時なのです。

例えばで言うと、タバコ吸いながらおしっこ行きたいなーと思ってる時はタバコの味など分かっていないのです。

 

なるほど。そこで初めて合点がいくことがたくさんありました。

 

だからこそ、男性は1つしか感情がないのでそこに向けてオチや着地点を考え話しますが、女性の複数の感情を持った話を伝えるためにのらりくらり話したり、それに該当する言葉がないために話を上手く言葉にできない時に男性がめんどくさいと思ってしまうことがあるのでないかと思いました。

 

男らしい意見や決断とはスッパリ決めることを意味しますが、それは感情が1つしかないので決めることができるのです。対して女性はたくさんの感情がある故に決めきれず買い物などが長くなるということが起こりうるのです。

 

そんなところまで感じてしまえた作品ででした。

女の子は死ぬまで女の子なのです。

娘と母の親子でありながら、友達のように楽しみ喧嘩する姿が日常とリンクする素敵な作品でした。

レディ・バード」ぜひ女性にこそ見てほしいです。